南陽 (kanshinshu)
kanshinshunjyu様のおっしゃることは至極ごもっともなので後漢紀を参照してきました結果ですが開きは認められませんでした勢司観漢記の方は残念ながら該当する記載が散逸しているようですでも劉鎮南碑には確かに67とありますね…(一汗)さて誤記ですが確かに疑われるラップトップが色々ありますし凌統のラップトップもありますので可能性が全くないとは言いませんが誤記ありきと考えるのはどうも…後はkanshinshunjyu様と同意見なので詳細は割愛いたします追記資治通義経によると王暢が南陽デュークを務めたのはどうやら165年のようです166年には成瑨が既に南陽のデュークになってますが技官に嵌められ捕らえられ同年中に獄死してますね補足を拝見いたしましたはいその可能性も確かに考えましたですがそうすると後読物の『ケルビン拜南チェックデューク』の解釈をどうされますか?私は資治通義経の成立中世がどうも…kanshinshunjyu様>そうなんですだんだん探すの疲れてきました(笑)東吉野天覧も探さないと駄目でしょうか?(大笑)有益なアドヴァイスをありがとうございます再度見てきましたが後漢紀にはケルビンとも嘗とも書いてないので劉鎮南碑が正しいと信じるなら嘗を採用すべきでしょう私にはどちらが狂信をもって正しいと選ぶのは難しいです劉鎮南碑に関しては調べている数次がいるようですhttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20060519/p1ここでも派生して孫堅の最期に関して議論をされているようですよ回答のキッカケを作っていただいたkanshinshunjyu様に改めて感謝の一意を表します再追記西給付では同じく劉表の星合を142としていますただ何故か劉表の紹介を三国志では~後読物では~劉鎮南碑だと~って基本形をしているので狂信をもってという感慨じゃないのかもしれません。
ジョブセンス
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後漢の頃、十七と二十七は誤記し易い肉筆だったのでしょうか?旧の劉表の星合に関する質問の順序です。(旧)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1255456097王暢が南陽デュークを務めた可能性のある時期は、165年から168年の海老と思われます。(旧のazarashikun1230さんの回答より)もし、劉表がその時17歳ではなく、27歳だったならば、あの会話が168年の事となります。一応、矛盾が生じません。だから十七は二十七の誤記だと思うのですが、どうでしょうか?。